『教育と授業』(著)宇佐美寛 野口芳宏 往復討論 さくら社

教育と授業 往復討論

 お名前ぐらいは存じ上げていた程度で、これまでお二人の著書は拝読していませんでした。しかし、本の帯に「往復書簡による討論」「リスペクトと痛烈な批判が織りなす、これが討論」とあり、これは本音をぶつけ合っているなと興味をそそられました。感想を一言で表すなら「すんげー」です。何度もつぶやいてしまいました。とても面白かったです。

圧倒的読書量、教養量、仕事量

 何が「すんげー」のか。それはお二人の圧倒的読書量、教養量、仕事量、熱量です。主な討論内容は「授業の在り方」「国語教育の在り方」「英語教育の小学校導入の是非」であったように思います。その中でお二人それぞれのお考えを述べられているのですが、多数の参考文献からの引用、ご本人の実践からの引用が必ずあります。まずは、その読書量に圧倒されます。この世の書籍は辞書の類も含めすべてお読みになっているのではないかと思わされます。さらに、宇佐美先生は大学講義での実践、野口先生は小学校での実践が凄まじい。一つの授業にかける準備、仕事量、熱量。ここで紹介すると長くなるので割愛しますが、とにかく頭が下がります。
 そんなお二人の真剣な往復討論であるから、説得力が違います。思考が刺激され、あっという間の読了でした。

最も考えさせられた、「発問」について

 国語の授業の在り方について、お二人の意見が特に分かれた(多々ありますが)ところがありました。それは「発問」です。宇佐美先生は「発問否定派」、野口先生は「発問肯定派」の立場をとられました。

 宇佐美先生は、「発問」について、学習者にそのこと以外考えるなと思考を束縛している行為だと主張しています。ただ読めばいい、自力で読むことが大切で、一人の読み・書きを指導すべきだと説いています。宇佐美先生の授業スタイルは、授業前の予習にあります。必ず学習者に予習を課し、その内容を確認しさらに訂正させてから授業に臨ませます。だから、学習者一人一人に合った明確な課題に対峙させることができるのです。つまり、一斉に「発問」し、そのことだけを全ての学習者に思考させることは、思考の束縛行為に他ならないのです。

 一方、野口先生は、「発問」について、「発問の生産性」という言葉を用いて、一人読みでは気付き得なかったことへの新たな気付き・深まりは、「発問」によってこそ生産されたものであると主張しています。自力で初めから深く読み込めている学習者は少ない、それをただ一人で読ませる、ほっておくことは授業放棄と同義だともおっしゃっています。野口先生は小学校畑の先生ですから、児童にただ読ませることへの危機感・違和感をもったことでしょう。一人の読みだけでは、多くの児童は表面的な理解に終わり単一な感想をもつに終わることでしょう。

所感

 正直、どちらの意見にも納得させられました。というのは、どちらの経験も私にはあるからです。「発問」によって学級全体を揺さぶり、新たな気付きを与えることができた経験もあるし、「発問」がうまく機能せず、数人の思考は刺激できても多数は思考停止なんてことも経験しています。学習は、一人一人能力も理解も思考も異なるゆえ、あくまで個別化が図られなければなりません。しかし、学級という集団で学習を行う際、教師の発問や子ども間の学び合いといった協同化もなければ深まりがありません。このある意味矛盾している状況が、学級という学びの集団には起こりがちであると思います。もちろん一撃必殺の攻略法はありません。今回、宇佐美先生と野口先生には、改めて授業者のあるべき姿、学習者のあるべき姿を教えていただいたように思います。

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