私はよく「完璧主義すぎる」「力を抜け」「手を抜け」「真面目過ぎる」などと言われることが多い部類の人間です。とても有難いことですし、こう言ってくださる方の言いたいことは頭では理解できます。しかし、そのやり方が私にはよく分かりませんでした。例えば、私はどんなに忙しくても疲れていても、落ちているごみは見て見ぬ振りができずに引き返してでも拾ってしまう性格です。そうしないと、自分に「妥協した」「裏切った」「負けた」などと、何となく自分を許せなくなってしまうのです。私のような方、他にもいません?

 先日先輩と話していて、前述のような内容になった時、「ありのままの自分でいいんだ。やり切りたい頑張りたいのも自分、疲れて出来ないのも自分、落ちているごみを拾えない時があるのも自分。全部それでいい。」とアドバイスしていただきました。ああ、まだ自分は若いんだなと落胆し、分かったような分からないように気持ちでしたが、ふと若手の時に読んだ教育誌の内容を思い出しました。そのタイトルは「 ヒドゥンカリキュラム 」という聞き慣れないものでした。
 その記事には、このヒドゥンカリキュラムの意味や学級経営に生かせる具体的な取り組みが書かれていました。ほとんど内容は忘れてしまっていますが、一つ覚えているのは「しゃーないなー」の大切さです。この先輩との話の中でも、この「しゃーないなー」を思い出したのです。(前置きが長くなり申し訳ないです)

ヒドゥンカリキュラムとは

 ヒドゥンカリキュラムとは、別名「隠れたカリキュラム」「潜在的カリキュラム」とも言い、学校が意図的に掲げるフォーマルなカリキュラムではなく、環境や雰囲気、様式、意識などが無自覚に教師や児童・生徒に影響を与えるものを言います。
 例えば、ごみがあちらこちらに落ちている環境ではごみを捨てても平気だが、ごみ一つ落ちていないきれいに整えられた環境ではごみを捨てづらい。授業中よく手を挙げる集団の中にいたら抵抗感なく手を挙げられるが、全く手を挙げない集団の中にいたら手を挙げづらくなる。これらは、その人が属している環境や雰囲気が、その人に無自覚に悪影響を与えていると言えます。

ヒドゥンカリキュラムを生かす環境づくり、雰囲気づくり

 今のは、ヒドゥンカリキュラムが与える悪い影響の例ですが、良い影響を与える場合もあります。その一つが「しゃーないなー」です。子どもは未発達で未熟です。それが集団でコミュニティを作っていますので、様々なトラブルや問題、失敗を起こします。それは当然です。そこで教師はどう関わるかです。多くの場合、毅然とした態度で厳しく指導するでしょう。時に厳しく指導することも必要だと思いますが、子どもはトラブルや失敗を犯した場合、その時点で後悔や反省を少なからずしているでしょう。そこでこのような指導は、子どもに追い打ちをかけてしまうばかりか、心の距離が離れてしまいかねません。
 そんな時に、先生から「しゃーないなー」と言われたらどうでしょう?子どもは「ラッキー」「やったぜ」「もっとやってやれ」と思うでしょうか?多くの場合、否です。きっと「今度から気を付けるよ」「先生分かってくれた」「なんか温かいな」などと思うでしょう。それは、周りで見ている子ども達にも同様です。先生の「しゃーないなー」の寛容な姿勢が子ども達を温かく包み込み、プラスの教育効果を生み出すのです。

教室でも、家庭でも、自身のメンタルコントロールでも

 他にもヒドゥンカリキュラムを生かす環境づくり、雰囲気づくりはたくさんあるでしょう。それは、決して教室だけの話でなく、家庭でも同様です。よく保護者の方から「ゲームばかりやっているんです」「全く本を読まないんです」などと相談を受けます。私は必ず「お家の方はどうですか?」と問い返します。多くの場合、ゲームばかりやっている子の家庭では、大人がテレビやスマホばかり見ているものです。本を読まない子の家庭では、大人も本を読んでいません(もしくは読んでいるところを見せていません)。これは家庭内でのヒドゥンカリキュラムが子どもに悪い影響を与えている一例です。
 これを逆手にとって考えれば、子どもと一緒に過ごす時間を大切にし、コミュニケーションをとる時間をつくることや、一緒に本を読む時間をつくるという発想になります。これがある程度習慣化されれば、家庭内のヒドゥンカリキュラムが子どもに良い影響を与えていくでしょう。

 さらに、私が先輩との話の中でこのヒドゥンカリキュラムを思い出したように、時には自分自身にも「しゃーないなー」を適用させ、自分を許し、認め、受け入れていくことが、良いメンタルコントロールに繋がっていくようにも感じました。なんだか妙に納得し、ストンと落ちました。自分自身を見つめ直し、自分の取り組みを見つめ直すよいきっかけとなりました。先輩に感謝です。

Follow me!