先日、テレビで日本を代表する哲学者「西田幾多郎」の特集が放送されていました。皆さんは、“人は人、自分は自分”という言葉を聞いたり言ったりしたことはないでしょうか?その言葉の生みの親です。“人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾行くなり”という言葉を残されています。他にも「絶対矛盾的自己同一」などが有名だそうですが、難しすぎて・・・。ゆとりのある時に著書を拝読し、考えてみたいと思います。
この時の特集では、「実在」について、西田氏の最難関哲学書の一冊『善の研究』を読み解きながら解説されていました。今回は、その特集を見て教育に生かせると感じたことについてまとめてみようと思います。
● 実在を捉えることで得る「純粋経験」
西田氏曰く「あるモノを見る時、大抵の場合は様々な色眼鏡で捉えている。それは“虚構”である。」としています。つまり、何かモノ(物・者・もの)を見る時、思想、概念、価値観、経験、意見など、様々な色眼鏡で見がちで、それはそのモノを捉えていませんよ、ということです。そうではなく、「あるモノをまっさらな状態で見て、感じたり考えたりする前の状態の時、そのモノはそこに“実在する”と言える。」としています。そして、その実在するモノを自分自身が経験することを「純粋経験」と言っています。この「純粋経験」こそが大切であり、人生はこの「純粋経験」でいくらでも変えられる可能性があると説いています。
確かに、思い返してみれば私自身にもこのことが納得できる出来事があります。例えば、私が初めて入ったお店のことです。そのお店のパスタがとても美味しかった!これは大発見した!と思いました。そこで、スマホでこのお店の口コミを調べてみました。すると、5点満点中3.1で“普通”でした。しかも、勧められていたのはパスタではなく肉料理でした。これを見た私は、「あれ?これ、美味しくないの?普通なの?」と感動が薄れてしまった、ということがありました。
このことは、まさに「純粋経験」による“実在した”料理が、口コミという異なる価値観や意見が介入したことにより“虚構”と化してしまった瞬間でした。
● 何事にも代え難い「純粋経験」の積み重ね
教育で考えてみましょう。教育とは、むしろ、まっさらな状態の子どもに、先に述べた思想や概念、価値観、経験などを与えていく行為に近いと言えるでしょう。また、様々な生育歴の子ども達で学年や学級を構成し、価値観や意見を交流していくことで、人格や自己を形成していくのが学校という場で行っていることでしょう。
しかし、そういった“虚構”ばかりで物事を捉えるようになってしまうと、自分というものが何なのか分からなくなってしまう感覚は、教師をしていて理解できます。何が本当で、何が正しくて、自分はどう思うのかさえ分からなくなってしまうことも、子ども達にはあるかもしれません。やはり、自分を創り上げていくのは、実際に体験したことから得た感覚、「純粋経験」によることが最も大きいと思います。
具体例を挙げてみると、例えば、友達に嫌われたくないから友達の意見に同意ばかりしていると、本当は自分はどう思うのかや、真実は何なのかなど自分を見失ってしまうことがあります。また、理科や算数などの教科学習では、教科書に書いてあることを座学で学ぶだけでは読んで知ったまでですが、感じたり考えたりしたことを実際に自分が実物でやってみることで体感的に学びを得ることができます。さらに、私が5年生の担任をしている時、学力や資質・能力が高く、しっかり自分の意見が言え、感情も豊かな女の子が、“私はこれまでに47都道府県すべての場所に旅行に連れて行ってもらった”と話してくれたのを“なるほど、それでこの子ありか。”と感じたこともあります。
自分に備わってしまっている色眼鏡を外して、またはまっさらな状態で物事を感じ、その「純粋経験」で得たことそのものが自分であり、さらにこれからの自分を培っていくのだということがよく分かります。
このように、 教育でもこの「純粋経験」による自己形成の考え方は大いに生かせると思いました。様々な価値観や意見は学びながらも、すべてを削ぎ落してありのままの実体験を積んでいく。そこで得た感覚を大切にする。これは、教師も子どもも持っておきたい重要な人生観だと思います。