「学校違えば文化も違う」の言葉通り、学校によって様々な違いがあります。白か黒かまで違うことがあります。本当に混乱するので勘弁していただきたいのですが、往々にしてそれが現実であると思います。地域も実態も同僚も違うので、ある程度仕方のないことだと理解はしているつもりです。しかし、私はよく「本当に良いものは“良い”はず」とか「どっちでもいいことに時間を掛けるな」などと思うこともあります。
 今回はそのような「学校間の違い」中で、こうあるべきだよなと個人的に考えていることについてまとめていきたいと思います。

理想の子ども像の明確化と共通理解

  よくあるダメな例を一つ挙げると、教師によって子どもへの言葉掛けが違うということがあります。声掛けが違えば当然子どもは混乱します。ある程度先生方の感覚を統一することが必要です。しかし、なんか威圧的で声の大きな先生、影の権力者的な先生、生徒指導主任の先生が言ったことがすべてのようになることがあります。私は違うと思います。学校長が作成している(本当にちゃんと作成している?かは別として)学校目標や教育目標をもとにし、この学校ではどのような子どもを育てるのかを明確にし、すべての教職員がそれを共通理解することが大切だと思っています。小学校なら6年間、中学校なら3年間で、卒業時には、子ども達にどうなっていてもらいたいのかが定まっていれば、自ずと声掛けも定まってくると思います。意外とここが定まっていないことが多々あるように思います。

資質・能力を重視する(コンピテンシー・ベース)

  学校生活すべてが子ども達の学びの場です。授業はもちろん、休み時間、昼食(給食)、掃除、登下校、すべての活動において学ばせたいこと、身に付けさせたいこと、高めたいことがあるはずです。例えば、休み時間に友達と遊んでいるときは、「コミュニケーション能力を高める」ことに繋がりますし、「友達を気遣う優しさや思いやり」、「ルールを守る」ことなど、様々な学びを子ども達は無意識にしています。また、掃除の時間では、「自分の担当以外の乱れた場所にも心を働かせて環境を整えることができる」ことや、「落ちているごみを自分の判断で拾うことができる」ことなどをねらって育てることができます。こういった力は、人間としての資質・能力(コンピテンシー)の部分です。

  授業では、当然学力向上をねらいます。つまり、学習内容(コンテンツ)を身に付けさせることが目的となっています。しかし、授業では本当に学習内容のみ指導すれば良いのでしょうか?それは学力をどう捉えるかでも変わってきますが、私は、授業にも資質・能力重視(コンピテンシー・ベース)の観点が大切だと思っています。例えば、「自分の考えを友達に分かるように主張できる」ことや、「どこまで分かっていて、どこが分からないのか言える」こと、「他者の話を最後まで傾聴できる」こと、「困っている隣の子に声を掛けてあげられる」ことなどは、その子の授業中の資質・能力と言えるでしょう。他にも挙げればきりがありませんが、これらはテストの点数のみ(コンテンツ・ベース)では表せないけれど、とても大切な力でしょう。これが学校全体でねらいとして明確で共通理解できていたとしたら、教師間で子ども達の対する声掛けも定まってくるでしょうし、ブレずに教育していくことができるでしょう。

 「この学校ではどのような子どもを育てるのかを明確にし、すべての教職員がそれを共通理解すること」が大切だと述べました。それは、授業時でも、授業以外でも同じです。その際、ぜひ資質・能力重視の観点でどんな子どもに育ってほしいのかを考えていき、それらを共通理解した上で教育活動を行っていきたいものです。

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