少々長文ですが、学校関係者や保護者の皆さんにはぜひ最後まで読んでいただきたいです。この本は「はじめに」の書き出しからドキッとさせられます。“e-ポートフォリオ”という個人を表す成果をデータ化・点数化し、比較が出来るようなものの導入が文科省を中心に検討されている話題から始まります。筆者の武田信子さんはこれを危惧し、現状や今後の見通しを次のように述べています。中略を挟みながら、なるべくそのまま引用します。
子ども達は友達同士で競争させられ、テストの点数で順に並べられ、点数が付けられた学校に点数の順で入り、卒業の時にも次に入る学校で並べられ、最後は就職で優劣が付けられる。会社では業績順に並べられ、売上高、給料、出世と評価され続ける。(中略)親は、子どもが将来、周りから取り残されないように、自分たちの薄給のせいで子どもが悲しい人生を送らなくても済むようにと、赤ちゃんの時から子育てや教育にお金をかけ、そのために共働きで長時間働くので、自分で子どもの世話をする時間を十分に取れない。(中略)教育熱心な親は、非認知能力が大事だと言われればキャンプに連れていき、感性が必要だと言われれば、五感を育てることを謳う教室に通わせるというふうで、何としてでも子どもを高得点の子どもにしたいと思っている。(中略)育てた子どもは、いずれ自分の商品として出荷する、いえ、私の作品として世に出すのだから。さて、子ども達の人権は本当に守られているだろうか。不適切な養育が、子ども達の人権を奪っていないだろうか。(以下略)
この書き出しは強烈でした。私も子どもを育てる親の一人として、当然このようなマインドで子育てをしているつもりはありません。しかし、やっていることはそういうことなのかもしれない、と思わざるを得ませんでした。
筆者の武田さんは、子ども達が自分の生きる世界を理解し把握するために学びたいという、真の人としての成長発達のニーズではなく、大人の将来への不安や欲望から強制的に学ばせられる状態のことを“エデュケーショナル・マルトリートメント”と名付けています。これは、親による教育虐待だけでなく、社会全体の歪んだ教育観によってなされる、大人たちから子ども達への不適切な行為のことであると定義しています。この本は、この“エデュケーショナル・マルトリートメント”について仕組みを含めた詳細や、そうならないようにするための個人的・社会的な手立てについて提案されています。
私は教師であり親です。それぞれの立場から読み進めることができました。多くの学びがありましたが、今回はそれぞれの立場から最も心に残ったことを一つずつ挙げたいと思います。
【教師の立場から】
私はこれまで多くの教育書を読んで知識や理論をインプットしたり、またそれを現場で実践したりする中で、「学習内容(コンテンツ)と資質・能力(コンピテンシー)をバランスよく子ども達に身に付けさせていくことが大切である」と考えてきました。例えば、2年生の九九であれば、九九を覚えて計算できるようにすることは学習内容です。一方、それだけではなく、その単元や教材を通して身に付けさせたい資質・能力を考えます。九九の例をそのまま生かすと、九九の授業で九九表を用いてそのから規則性を見出す授業を行ったとします。子ども達は様々な発見をし、発表したがるでしょう。その際、“発見したことをなぜそうなっているかも含めて友達3人以上に説明しよう”と発問します。すると、そこでは、子ども達の思考力や説明力の向上が促され、仲間とのコミュニケーション能力が高められ、よく分かっていない仲間に寄り添うことで思いやりなど感性の醸成も期待できます。
このように考えていた私に、筆者の武田さんは学習内容(ここでは学力)と資質・能力(キーコンピテンシー)について、次のように述べています。
『学力について』
・「将来が安泰なら勉強しなくても良い」、これが残念ながら現在の日本の「勉強」「学び」の正体のように思う。本当に学ぶことが楽しいとか、深く考える力をつけるとか、人生を豊かにする学びを身に付ける、というのは二の次で、「他人との比較で高い評価を受けるステ―タスとしてとしての学歴があればいい。(以下略)」少なからぬ本音はそこにあり、でもそのステ―タスのために、小学生の頃から、あるいはすでに就学前から競争を始めている。
『キーコンピテンシーについて』
・キ―コンピテンシ―は、すべての人にとって重要な汎用的能力とされている。(中略)しかし、私たち人間の価値を「すべての人にとって重要な汎用的能力」の指標で評価することは可能だろうか。誰のため、また、どのような時に役立つのかをしっかり考え、同時に別の複数の評価軸を持つことの必要性を認識していないと、この指標で高く評価される人材を輩出することが学校教育の目標と思い込んでしまわないか。(中略)そもそもキ―コンピテンシ―はすべての人が身に付けることを目指すべき能力と言い切れるのだろうか。(中略:キ―コンピテンシ―が高いとは言えない農業従事者がボランティアらの協力を得て倒産を免れる話があり)ここに関わった農業従事者たちの力は、キ―コンピテンシ―で測れるものだろうか。それを支えた人たちの力はどうだろうか。各個人がそれぞれキ―コンピテンシ―を身に付けている必要性はどのくらいあったと言えるだろうか。関係する人たちの総体的な力、それを私は「組織のト―タル・コンピテンシ―」と呼びたいが、それこそ必要なものではないか。(中略)私たちは普段、人と共に生きている。コンピテンシ―は、たえず関係性の中で生かされていくものだと思うのである。
これらは、完全に見えない角度からの指摘でした。しかし、言われてみればその通りだと言わざるを得ない具体的な事例を挙げながらの指摘でした。文科省で推奨されているキー・コンピテンシーですら疑ってかかる必要性を教えていただきました。
【親の立場から】
私は3児の父親です。子どもは元々様々なことに興味関心があり、もっとできるようになりたい、もっと知りたい、もっと頑張りたい、今よりもよりよくなりたいと願っている存在です。ですから、習い事もさせていますが、子どもの“好き、したい”を大切にしたいと思っています。勉強ができるように、とは考えていません。でも、何か一つでも夢中になれることを見付けて努力できる人になってほしいと思っています。
そんな私に、筆者の武田さんは、次のように述べています。
・大人は自分がいい子育て、教育ができる人でありたいと思い、いい子を見て満足し、できの悪い子どものできの悪さを自分の責任ではなく、他の大人の責任にしたり子どもの責任にしたりする。でも、養育や教育は、可変性のある子ども達と大人との間でなされるものであり、大人がどのような環境を用意できるかによって変化するものである。
・(文中の「遊び」を「学び」に置き換えてもいいと思う)「子ども達に自由で楽しい遊びが必要」だから、「(大人が先頭に立って)子どもを楽しく遊ばせよう」「(遊びを知らない子ども達に)遊びを教えよう」「(遊べていないから)主体的に遊びなさい」という。大人が子どもに「やらせる」モ―ドになっている時点で子ども中心ではないのだが、子どもにいいことをさせたいという善意の大人はこの矛盾に気付かない。遊べる養育環境を作ることは、大人が関与しつつ関与しないという絶妙なバランスが求められ、難しい。
・自分の赤ちゃんをのちの成功者にしたいと考えている人は、自分の子どもが20年後に成功者になっているとして、「同じ地域の人々の日常生活がどうなっているか」「地域全体が幸せになっているか」「成功者となった自分の子どもが住民から愛されているか」について考えてみたことがあるだろうか。(中略)自分の子どもだけが頭一つ抜け出て幸せになることを考えているとしたら、それは結局は無理なことなのである。
これらも、これまで親として考えてもみなかった新しい視点でした。結局自分の子どもの幸せだけを考えている時点で、幸せにはなれないのだなと思いました。皆誰しも大小様々なコミュニティの中で生活しています。その中でどのような存在になっていくのか、もっと言えば、生活する者として、人として、どう在るべきかを問うていくことこそが大切なのだなと気付かせていただきました。
【最後に】
これまで自分の子ども達のことだけを考えていた自分を見直す機会となりました。自分の子どものことだけを考えることは結局子どものためにはならず、他者やコミュニティとの関わりの中でどう在るかの観点をもつことで、養育や教育がより広い視野で捉えることができることが分かりました。今後は学習内容や資質能力にこだわらず、関係性から創られる力にも注目していきたいと思います。
皆さんも何か一つでも得るものがあったのではないでしょうか?学校関係者の方はご自身と組織による教育に、保護者の方はお子さんの養育に、ぜひ生かしていってください。そして、ぜひご一読されてみてはいかがでしょうか。