最近、文部科学大臣の「身の丈」発言が問題になりました。大学入試英語の民間試験導入について、家庭の経済的な条件や地理的な条件による不公平・不平等を指摘された際、文部科学大臣が「身の丈に合った受験をすればいい」と発言した問題です。
これは教育基本法第4条『教育の機会均等』“すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。”の文面に反するものです。法規を理解していながらの考えなのか、法規を落としての考えなのか、一個人としてそう思っていたのか、立場上そのように考えざるを得ないのかなど、色々考えが巡りました。
しかし、今回私が気になったのは別にあります。それは、このことを指摘されて、即時発言を謝罪・撤回したことです。私は「あれ?そう思っていたんじゃないの?」と思いました。さらに大臣は、この謝罪・撤回した時「言葉足らずで」や「誤解を招くような」などということもおっしゃっていました。言葉足らずなら、後日言葉を足してじっくり説明して誤解を解いてくれればいい。撤回する必要はないはずです。批判的になってしまいますが、私はこれでは誠実さに欠けると思いました。
● 子ども達はどう感じるか、子どもは大人を映す鏡
子ども達もこの問題は知っているでしょう。学校を抱える文部科学大臣の言葉ですから興味もあるでしょうし、スマホを持ち、SNSなどでネットに繋がっている世の中ですから、間違いないでしょう。では、子ども達はどう感じたでしょう。「受験に不利になってしまう」という内容への不安感と同時に、「やっぱり大人なんてこんなもんだ。」「世の中なんてこんなもんだ。」という大人への落胆もあったのではないかと思います。
子どもは大人をよく見ています。そして、子どもは大人を映す鏡です。大人を見て影響を受けます。もし子どもを嘆くとき、そのような大人がいたということを嘆くべきです。
● 大人だって間違える、手本としての大人に
大人だって間違いも勘違いもすることがあります。大臣も一人の人間です。大臣は間違えていけないのでしょうか?確かに発言の重みは、私のような一般人より重いでしょう。でも、それなら誰も大臣を務められませんし、今の世の中がすべて正解だということになります。
ですから私は、ありのままに伝えれば良かったと思います。「間違っていた」「勘違いしていた」「私はやはりこう思う」など、本心をしっかり表現すればいいと思います。価値観は人それぞれですから意見は違っていていいでしょう。むしろ様々にあったほうがいい。しかし、人としては間違っていてはいけないのです。正直さ、誠実さは、“人として”の部分です。
教育を考える時、そこに常に子どもの目があります。大人が子どもに何かを教えるなら、その教えたことは少なくとも大人は実行していなくてはいけません。主体的に学ぼうと言うなら、大人も主体的に学んでいなければいけません。読書を勧めるなら、大人も本を読むべきです。しっかり話を聞きなさいと叱るなら、大人も子どもの話をどんなに忙しくても邪険に扱わずに聞くべきです。学校で子どもにアクティブラーニングを施すなら、大人自身がアクティブにラーニングしているべきです。普通に考えれば当たり前のことですが、意外にできていないことが多いように思います。
すべての大人たちは、自分が子どもの鏡になっていることを自覚し、自身の生活や行動、態度、言葉などを今一度考えるべきではないでしょうか。もちろん、私自身への戒めも込めて。