最近、教師の体罰を報じるニュースが本当に多いなと思います。そのたびに、私は思わずため息が出ます。もちろん、体罰は認められません。しかし、それだけが原因の私のため息ではありません。
●体罰は“教育の敗北”
教師の体罰は、“教育の敗北”と言われます。なぜなら体罰とは、“どうしても成果を得られない”“子どもを思うように改善させられない”というときに、怒りによって衝動的に力で子どもを何とかしようという行為に他ならないからです。さらに、教師という立場を利用して行う暴力行為なのでたちが悪いと言えます。
●子どもの成長の機会はあるか?
私が現状良くないと思うことは、教師が体罰をしてしまった時に、『その事実のみを大々的に報じて教師をバッシングするに終わり、子どもが何をしたのかがほとんど報じられないこと』です。教師とて、体罰をしたくてしている訳ではないでしょう。体罰をした原因があり、そのことを吟味しないのです。「子どもは何をしたのか」「これまでの関係はどうだったのか」「授業は成立していたか」「家庭環境はどうであったか」など、もっとその背景も取り上げた方がいいと思います。なぜなら、今のこの状況は子どもにとって良くないと思うからです。
今の状況は、単に教師の立場を弱くしているにすぎません。この状況は子どもも見ていますし感じています。ですから、子どもの教育を考えた時、プラスの方向に向かっていない状況だと思います。子どもの成長のための教育のはずなのに教師の弱さを実感するに終わり、自分が何をしてしまい何が悪くどうすべきだったのかを考える機会を奪ってしまっているのです。
●これ以上、子どもと教師の関係を悪くしないために
しかも最近、体罰が発覚するのは、子どもによるSNSへの流出が目立ってきています。子どもがわざわざ教師を煽って体罰を誘うという行為も頻発しています。この状態を見て保護者も“うちの子をそうさせる先生が悪い”という立場が多いようです。これで本当に良いのか?と思います。ここまできていると、もう教育は成り立ちません。
本来、教育とは、教師と保護者、それから子ども自身が、子どもの成長を目指し、共に同じベクトルの志で関わって行われるべきものです。何度も言いますが、体罰は論外です。教師も罰せられても仕方ないと思います。しかし、そこに子どもが関わっていて、教育という営みの目的は『子どもの成長』にあるのですから、“これをしたら子どもがどうなるか?”や逆に“これをしなかったら子どもはどうなるか?”というように、主語を子どもにして大人たちは体罰問題に関わっていくべきだと思います。